○父から学んだ 「平等・こう平・自己犠牲」の精神 |
福井の旧制福井中学の校長だった父は、近所の不良生徒や中学の退学者を家に呼んで住まわせていた。 |
多い時には20人以上いた。「最初から悪いやつなどいない」 が口癖で、 “しかる時にも’ほめる’ことを忘れなかった。 |
社会の原点は 教育、父の一貫した姿勢であった。 |
幼い時から植え付けられたのは「平等・こうへい・自己犠牲」の精神。 偉い人にごまをするのではなく、子供や弱い人の立場で考えよと教えられた。 |
○私の人生に強い影響を与えてくれたかた |
大洋漁業のオーナー、なかべけんきちさん、その相談役の白洲次郎さん。 私は白洲次郎さんの秘書になった。白洲さんは、連合国軍占領下の吉田茂の側近として活躍、貿易庁長官に。以後、実業家として東北電力会長などを歴任して大洋漁業の相談役になった人。白洲さんと二人三脚で経営改革にあたった。GHQの要人に「敗戦国だが奴隷ではない」と言い放ったほどの白洲さんは、なかべけんきち社長と同じく、権力が大嫌いで弱者の味方という考えでした。 |
また美辞麗句は言わない合理主義者でした。白洲さんが唯一媒酌人を務めた 中べ健吉社長の息子さん 慶次郎氏 (のちのマルハ社長) の挨拶は「おめでとう」 のひとことでありました。 |
現場や 弱者をこよなく愛した なかべ社長と権力争いで弱者の味方 白洲相談役の間を いったりきたり の関係になったのです。 当然、多くのことを学びました。 |
私は1971年 秘書課長になりましたが、白洲さんの秘書をやりながら なかべ社長を補佐する 機会が増えました。当時、中べ社長は日ソ 漁業交渉に一番 力を入れていた。自社の利益より 北海道の漁民、日本国民のたんぱく源の確保、何よりも日本のために 政府委員として強国 ソ連と戦った。 |
大洋漁業は1950年からプロ野球球団を保有していた。ホエールズは中部謙吉社長の 唯一の楽しみといってよかった。負けても、途中雨が降ってきても、決して途中で観客席を立たなかった。私は秘書室勤務時代から、野球にも深く関わってきました。フランチャイズの川崎球場は老朽化し、観客動員の拡大も 見込めず 70年代に入ると 横浜へ移転すべきだ、との案が出てきた。球界のいろいろな所に顔を出すうちにセ・リーグ会長の鈴木竜二さんと 懇意になりました。鈴木さんの目線は常に低く、何をさしおいても現場やファンの存在を 見据えていたのです。低迷していたホエールズを 「お前が社長をやれ」と、私に言い続けてくれました。1986年 私は 大洋漁業の 常務を兼務したまま大洋球団社長になりました。 |
この鈴木さんの哲学は、なかベけんきち社長と 白洲次郎相談役とともに、私の人生に強い影響を及ぼしました。 |
「さとうや」になる |
大洋漁業の社長が なかべ慶次郎氏になってからも、私は秘書として仕えました。、そろそろ身を引こうかな、思っていた1990年の球団社長をやめた直後に 「子会社の塩水精糖の社長になってくれませんか」と 慶次郎社長から 打診を受けました。そして6月、社長として出社して驚いた。図書館のような職場だった。勤務時間中はひっそりと仕事をし、時間になれば三三五五かえっていく 社員たちを見て、一体 何が楽しくて 仕事をやっているのか、私には分からなかった。 規制緩和や国際競争が世の流れになっているのに、このままではいけない。人的な競争力を高め、社員のやる気を引き出すことが私の最大の仕事になった。 |
塩水港精糖は明治37年 台湾で 後藤新平 (岩手県 みず沢出身、まんてつ 初代総裁、東京市長、 |
逓信大臣、外務大臣、たくしょく大学学長など歴任した 医師・官僚・政治家)の音頭で 発足した会社である。社長就任以来、改革に走り回り、パールエースのブランド化。オリゴ糖の商品開発、そして横浜・大黒町に生産拠点 (鶴見駅から「さとうのふるさと」への定期バスが運行されている) を集約化した。 |
2007年 同社の会長になった。私の名刺は 「さとうや」 です。肩書きも関係なく現場に戻って 仕事をしたい、と考えたからである。私は’現場の声を聴く をモットーにしている。 |
私か薫陶を受けてきた方々から身で学んできたものである。 |
以上が放談の要旨です。 (文責;佐藤政男) |