8.会員放談金子 利成氏(演題:住んだから分かった。新潟・名古屋・札幌あれこれ)
昭和36年に新潟県立新潟商業高校を卒業して野村證券に入社しました。
昭和36年を振り返って見ると、大松監督率いる日紡貝塚バレ一ボ一ル部の活躍、その他、歌声喫茶の登場、横浜マリンタワ一の開業、柏戸・大鵬の横綱同時昇進、タイトスカ一ト・ショ一トパンツの流行、流行語でいうとおよびでない、アンネのひ、巨人・大鵬・卵焼き、流行歌でいうと君恋し、東京ドドンパ娘、銀座の恋の物語、王将、上を向いて歩こう等、色々
あった昭和36年ですが、日本全体で見ると岩戸景気がピ一クをうった年です。皆さんご存知の終戦を迎えた昭和20年8月には生産設備の75%が破壊された。昭和29年から神武景気が32か月続いた。
その後、なべ底景気になり、昭和31年には一人当たりの国民所得が戦前に戻った。昭和33年から神武景気が42か月続いた。これだけ好景気が続きますと、日本中が良い影響を受けます。最も好景気の影響を受けたのは、証券業界です。何しろ、昭和36年に投資信託の元本残高が、1兆円を超えた。どんなにすごかったかということを申し上げますと、卒業生の
25%が証券会社でした。こんなのは、もちろん学校始まって以来です。
当時、オオタ ヒロシという商業高校の校長会会長を4期もやった、新潟県教育委員会を牛耳った大物校長がいまして、卒業間近の2月に卒業生を講堂に集めて何を話したかといいますと、「卒業生の4分の1は証券会社だ。証券会社というのは株を売る商売だ。株はいつも上がるもんじゃない。株は上がるときもあれば下がる時もある、その時には、悲惨な状況になる。皆、心しておけ。」ということを話された。
最初の支店は名古屋支店に配属された。総務を2年、営業を6年やり
驚いたことは、名古屋市民は松坂屋にロイヤリティをもっていて、お世話になった顧客に付届けをした際、松坂屋以外の包装紙の品物だと受け取けらないケ一スがあった。
昭和44年に初めての転勤で札幌支店に行きました。当時も今もそうですが、転勤族にとって一度は勤務してみたい地方都市はどこですかというと断トツで札幌です。当時の東の横綱は札幌で西の横綱は福岡でした。
話は変わりますが、日本の人口は30万人減りました。明治時代は多産多死で、明治21年の人口調査によれば、新潟県は全国1位で166万人でした。何故、人口が1位だったのか。それは農家だから出来たんです。
当時は家族が大勢いましたから、同級生の中に十三郎、末吉、止夫、止子
といった名前の生徒がいました。長男が嫁さんをもらって家を継ぐまでは、次男、三男はスペア一とされていた。ところが、長男のところに子供が生まれると今度は邪魔者扱いとされ、厄介おじと呼ばれた。気候が似ているということで、新潟県、秋田県、青森県から北海道へ渡った人は多かった。赴任した初日、びっくりすることばかりでした。異動した初日、歓送迎会があって独身寮に行きました。独身寮にはカ一テンが無いんです。夜の9時を過ぎても明るいんです。それで白夜に気が付きましたね。転勤したあくる年に結婚しましたので、5月の連休明けに花が咲いて花見に行こうと騒いだら、花見はしないようにと言ってくれて、円山公園へ二人で行きました。さあ、ビ一ルでも飲むかと言ったら、ヒュ一と風が吹いてきて帰ろう。それと花が違うんですね。蝦夷彼岸桜といいまして、こちらでは、大山桜です。花と葉っぱが開いているんですね。桜を1本、1本、ひとつひとつの花を見るんならば、綺麗ですね。ソメイヨシノのピンクの花が咲いている、やっぱり、あれが綺麗なんですよね。結婚式、これに驚きました。会費制なんです。のし袋等、いりません。結婚が決まると、そのことで話題として回ってきます。ある時、社内にカップルが誕生して私も出席するつもりでいました。しかし、直前になって女性の方からやめたんです。私はこんな話をしました。前任地の名古屋では、結婚するのは二人だけれども、結婚式は二人だけのものではありません。じゃあ、だれのもの。かりに青木家から荻原家に嫁さんが行くとしましょうか。青木家と荻原家がいかに堅実にやってるか、名古屋では、女3人いたら寝床つぶれるといわれている。結婚式の中止等、あり得ない。そんな事で、新潟、名古屋、札幌、旅行だけではわからない、住んでみないとわからない。ありがとうございました。
|