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会員放談(2023年11月10日 加藤豊氏放談)  音声はここをクリック      
   
 

私、生まれは1945128日、来月になると78歳になる。私は名古屋で生まれ、父親は終戦後仕事がなく紹介で横浜の会社へ、1965年(私が大学生の時)縁があってプラスチック成型加工会社を設立した。社員は家族を入れ4名でのスタートだった。

     私は卒業後就職したが、父親の会社が何度も不渡り手形で社員に給料が払えず、兄ともども戻って働くことになった。最初の2年間ぐらいは小遣い程度の給料だった。しかし、転機が訪れた。それは大企業からの受注だった。車の安全ベルト(シートベルト)のプラスチック部品・バックルの加工。日本にはまだ装着義務がなく、最初は市販として月1000個程度だったが、その後、法律で次々義務化され、生産量は倍々ゲームの様な状況となった。それに伴い設備も社員も急激に増えた。特に、社員が一時300名を超す規模となり、人件費の圧迫で採算割れが続き毎月が火の車状態だった。

 私自身最大の転機は54歳の時、二代目社長(兄)が60歳で急死し、会社を引き継いだことだった。当初は資金繰りに大変苦労した。そこで先ず利益確保のため全面的な見直しを行なった。非常に厳しい選択だったが、家族はもとより得意先、協力企業の助けと社員の理解、協力により成し遂げることができた。

 次に10億近い借金を減らすため、償却・人件費の見直しに力を注いだ。企業は受注変動に迅速な対応が必要となるが、経験上、人を解雇する時ほど辛いことはなかった。

こうした取り組みを通して、社長就任10年で借金も半分以下になり、設備投資等で社員も150名ほどに減少できた。少々自慢げになるが、売り上げも年商25億~28億の規模になり、今日に至っている。

 社長就任時厳しく辛い時期も数多くあり、持論になるが、当時は仕事を任すには信用する事が大事だが、心中では頼るな、信頼するなと、最後は自分自身の判断だと思っていた。

しかし、人との出会い・ふれあいを重ね、人間としての絆が深まり、人と縁で知り合い、縁で繋がりができて、人との大切さを知った。こうして70歳まで48年間も現役で過ごせた事に感謝したいと思う。 多くの人に色々助けて頂き、一人ではなしえない人生だった。

余談になるが、テレビを見ていて、一本のタスキをチーム全体でつなぐ駅伝は全員の協力、助け合い、目標に向かう、まさに会社経営と同じではないかと思った次第です。

以上