①
私の役割 音声で聞けます
事務総長・高木文雄国鉄総裁の博覧会協会事務局の広報責任者になり、会員190人のプレスセンター(事務局の2階・記者クラブ)を取り仕切った。当時の協会は、各パビリオンのスタッフ、民間団体からの派遣職員、横浜市職員で構成されていた。
②
開催前に出された課題とその対応
当時の竹下首相が開会式テープカットに参加したいとの官邸意向があり、渡辺が協会の責任者として「前向き回答」の調整を行った。官邸記者クラブから「当日、会場案内のバスを用意してほしい」との要望が出て、これに協会幹部から安全に運行できるかとの意見が出された。また、協会のプレスセンター記者クラブからクレームが出て、渡辺が調整説得に大変苦労した。最終的に了解され、オープンセレモニーは無事に終了した。
③
有名人の視察
(ア)
皇太子殿下(現天皇)は、高木事務総長がご案内
(イ)
クウェールアメリカ合衆国副大統領は、渡辺昭男が案内した。
(ウ)
朱鎔基 上海市長;横浜市の友好都市である上海市のトップが来訪。案内説明の司会進行を渡辺が担当した。
④
開催初期(4月~6月)の入場者数(目標では1日当り65,400人)
一日当り3万人~4万人で、雨の日も多く目標達成が心配された。
⑤
191日間フル出勤で諸問題に対応
休みなしで出勤し、しばしば午前様になった。午前1時過ぎにタクシーで帰宅時、「北里大学」(相模原)と言って眠ってしまい、起きたら東京の北里大学であった。帰宅は午前4時、6時には出勤という失敗談もある。
⑥
運営上最大の危機を8月下旬に迎える
会期末まで1か月の8月下旬、入場者数890万人で360万人不足していた。目標を1,000万人程度に下方修正しないと「博覧会失敗」になると記者クラブから責められたが、都市型博覧会は最終段階にドット入場者が増加するので必ず成功すると言い続け、記者の理解を得てマイナス記事は書かれずに済んだ。
⑦
成功できた横浜博関係者に感謝、感謝
その後来場者は激増して、目標を83万人上回る1,333万7,150人となった。
来場者、プレスの方々、コンパニオン、民間派遣スタッフなど関係者の皆さんにひたすら感謝です。
その年の雑誌「SPA!」10月号で「家永三郎一言」欄の次に、渡辺昭男の「横濱博覧会は“忍耐”のひとこと」が掲載されました。大変貴重な経験をさせて頂きました。
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以上
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