音声で聞く2
時は流れ、雑木林にハンモックが揺れ、傍らにアイアンのテーブルチェアーが並べられ、目を移すとバーベキュー用の炉まで切ってあるのです。当主の洒落た日常を垣間見る思いでございました。
この場所から、私の心の風景とも云える貨物列車や客車が、当時はもくもくと煙を上げて走る勇壮な状景を眺めることが出来ました。
秋田方面から庄内平野を縦断して余目鉄橋に差しかかるとき、ボーッボーッと汽笛を鳴らして渡る轟音は、実に迫力がありもの悲しい響きとして脳裏に残されているのであります。どんな人達を乗せてどこに向かっているのだろうか、果てしなく限りなく人生について探求心が湧いたものでありました。
沈みゆく夕日に染められて、まるで影絵のように煙を上げる列車は、今は語り草となり電化された車輛に抒情のよすがなく、時代の変遷を痛感させられるばかりでございます。
開発の波は容赦なく押し寄せ、都会なみの小さい洒落た一戸建が田んぼの一角を占め、生活の在りようも生き方も変化していっているのでございますね。
語尾を長く引いて上品に話す方言も、年配者でない限り聞かれなくなりました。あの山のてっぺんには、健康ランドやファッションセンターが進出し、ブルーラインを疾駆して他県からも人々が集結し賑わいを見せているそうなのです。変貌していくあまたの中で、今に変わらぬは風の語らいでありましょう。
生家に着いて冠木門を潜ると、欅の大木が天に向かってごうごうと渦巻き乱舞するさまは、この土地独特の風の出迎えと思い、さながら圧巻の一幕と云えるのであります。
風のたちはいくつにも分類され、色彩と音符をつけて吹き渡っていくのです。又、風が運ぶ芳香には、花や果樹のみならず自然界のエッセンスを混合しながら、肥沃な庄内の土壌と相まって妙なる調べを醸し出し、従って庄内地方の風は、無色ではないと言われるゆえんでございます。
三日目は権現神社で夏祭りがありました。五穀豊穣を祈願して、盛大に執り行われる伝統ある神事でございます。笛や太鼓のお囃子を何年ぶりかで目にしたことでありましょう。
かぐら舞いも舞楽、古典舞いも郷土色豊かに、古色蒼然とくり広げられていました。
過ぎし日々、なつかしきあの日々、両親、祖父母、叔父叔母が、皆揃って元気な頃でありました。あの笑顔、あのさんざめきが目の前をよぎります。かつて祭りの朝は、誰もがよそいきの格好をさせられ、髪にリボンや花飾りをつけてもらい、得意満面に近所の子どもたち、兄弟たちと祭りの行列に並んでいました。少しさみしく少し切なく、出店の廻り灯籠に哀歓を覚えた幼少期の姿が彷彿として蘇ります。
久しぶりに神社参拝を終えて帰ると、親戚縁者が待っていてくれました。食材はみな海の幸山の幸、畑の恵み母や祖母の味が、ちゃんと受け継がれ並べられていたのであります。
素朴でありながら深い味わいを噛みしめて腹ふくるるまでご馳走になりました。
これでお酒を呑めたらどんなに愉快だろうか。と下戸の私は雰囲気にすっかり酔いを感じ満ち足りた気分でございました。人情の厚い身内の歓待に、夜が更けるまで懐古談に花が咲き、見回すと大黒柱やなげしに、そこはかとなく祖先の霊がたゆとうている気配が静寂の中にそれは不思議な現象でありました。
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