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「わが人生・桜への想い」 下記の記事はここをクリック |
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私は、米国のワシントン生まれで、父は日本海軍 軍人で米国大使館員でした。 |
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母は、体が弱く 聖ジョセフで私を生み、4日後他界する。私の記憶にも残っておりません。 |
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父は、私を引き取ってくれず、ある白人(アルフレッド氏)が養子に迎え入れてくれました。 |
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私の想いは、「なぜ、なぜ、なぜ・・・」 |
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7~8歳のころ ワシントン ポトマック河畔を父と散歩、その時 父と口論になったことを覚えています。 |
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時期は4月だった。 父 「日本の桜は綺麗だ!」と桜の話をしてくれましたが・・・ |
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日米間に亘る 「桜」 について |
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1910~1913年ごろ |
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タクト大統領夫人が「ポトマック河畔は殺風景ですね」。 |
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これを聞いた友人のシズモアが日本の桜の見事さを紹介したことから |
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大統領が日本に桜の木を依頼し、苗木3千本、ワシントンには300本が贈られました。 |
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しかし、残念ながらすべて枯れてしまいました。 |
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これを聞いた当時の東京市長・尾崎行雄が 愛媛県、静岡県の染井吉野の苗6千本を贈る。 |
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だが、これもすべて枯れてしまうことになる。 |
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しかし、ある女性が桜の苗木を大切に育て、今の素晴らしい桜並木に生長したといいます。 |
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前出の シズモアさんのお墓は日本にあります。 |
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父からお参りしてくれと言われました。 |
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私は、メジャ-・エクソンの技術者でした。ある時、手紙をいただきました。 |
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その方は、米国太平洋艦隊の将校で、レイテ沖海戦で日本兵2名を救ったそうです。 |
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その日本兵の持っていたものは油紙で、日本語が記されていた。 |
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見てみるとそれは軍事機密ではなく、アメリカに置いていった息子の話が書かれていたのです。 |
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そう、その手紙は父親から私への手紙だったのです。 |
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その米国人から言われました。「父を誇りに思ってくれ」 |
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そして手紙には、「おまえはカズハルではない。ダニエルだ。日本に来たら靖国神社に来てくれ。」 |
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「靖国神社の桜を見て父を思い出してくれ。戦争が終わったら日米の役に立ってくれ。」 |
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と書かれていました。 |
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シズモアさんのお墓は横浜にあります。 |
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調べてみたら外人墓地にありました。横には、桜の木が植えてありました。 |
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また、シズモアさんのお兄さんは、横浜の領事館員であったようです。 |
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父親となぜあんな口論をしたのかなあ? |
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ワシントンの桜を育ててくれたこととともに思い出として残っています。思い出します。 |
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ありがとうございました。 |
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<中村会員より> |
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私も シドモアさんの研究をしています。シドモアさんのお墓は外人墓地にあります。 |
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(エリザ・ルアマ-・シドモア 1856/.10/14~1928/11/3) |
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当時の 桜の苗 を扱ったのは 「サカタ種苗」、日本郵船による輸送。 |
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シドモアさんは国際連盟にも勤務し、「私が死んだら日本に埋葬してくれ」と遺言したそうです。 |
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国際連盟には新渡戸稲造が部長として在籍しており、このことを聞いて実現したそうです。 |
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元町に接した橋の付近に碑が残っています。 |
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また、4月2日には外人墓地でのお参りが許されるようです。 |
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是非、花を手向けてほしいと思います。 |
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記事 神谷恒夫 |