横濱プロバス倶楽部     楽しくなければプロバスではない    
戻る 会員放談  小野寺あい子 氏       2017年2月10日
進交会館
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                                                      要約  神谷恒夫
 私は山形県庄内地方に生まれ育ち、東京家政大学短大へ進み家事全般について勉強し、将来は料理の道へ進むか手芸の方へ選択するか 信じて疑いませんでした。
 しかし思いもよらぬ夫の非業の死によって私と三人の子ども達は茨の道を歩むことになっていきます。
横浜に住むようになったのは、妹が中学校の教師をしていました 生きるパワ-をもらい頼れる存在でございました。
 スミセイとの出会いは、小学校PTAの集まりの時、当時の校長先生とスミセイの支社長が同じ大学だったとのことで事務員を募集していると云われ、福利厚生面が堅実な会社へは入れたらと内心考えました。桜木町のビルへ同行し、面接官という人が貴女は営業ができます と云われあれよあれよと云う間に所定のコ-スを終り 第一営業に配属されたのです。     
 
 さて、此処で私が申し上げたいことは、何の力もないこんなちっぽけな私が突然営業第一線に立たされて 大企業の壁に向かってどのように攻略して行ったかを理解して頂ければ幸甚に存じます。
   競合の激しい中をどうやって拡大していけば良いのやら 考えた揚句、ハガキ作戦を展開し アンケ-トをいただけた方々にすぐ礼状を書き、必ず末尾に つづく と書き入れました。    次第に 続きがあるの? とか 続きはまだ届いてないよ などと声がかかるようになって大分浸透していきました。
 そんな或る日、付箋の貼られたハガキが戻されたのでお客様に持参した所、何ともバツの悪そうな顔で ホントに出してくれるとは思わなかったんだよ と云われ八巻さんが企業活動での成約第一号になって下さい ました。地道な努力が報われるように手応えを感じはじめていたのですが、     その日の活動を終えて通用門を出たとき、セイホ同志の胸ぐらをつかみ合っての喧嘩の場面に遭遇しお客様の取り合いによるものだろうと察しました。苛酷な競争を避けたい私はせめてのびのび仕事が出来る所はないものかと新規開拓で大黒大橋を渡りました。
 時あたかもベイブリッジの建設途上で多くのジョイント企業が進出していました。  最初に訪問したのが大成建設さんのプレハブ事務所でした。こんな所へ女性は来ませんよ!   所長さんが うちで只一人の独身男と云いながら、スミセイさんこいつに誰か良い人いませんか?良縁になればみんなが応援するよ とおっしゃたのです。  好印象の田崎信一さんはそのとき26歳でした。タイプを聞きましたら、自分は納豆の好きな女性が好きであります と大きな声で答えられたのです。    容貌でも学歴でもありませんでした。
この言葉が後に企業保険として実を結び350万円の給料に繋がっていくことになります。 結婚することになって オ-プンしたばかりの銀座のホテルにて挙式。私は末席を希望したのにお歴々が着席している一番テ-ブルに案内され足が震えたものでした。   只好意で橋渡しをしただけなのに大きな契約へと進み、スミセイとのトップ会談に発展し企業保険の導入となっていきました。
 
 そんな折にアメリカデトロイトから帰国された一家がありました。海外出張中私がエアメ-ルを送り続けていたことに感謝してくれて、家族5人、年金も同時申し込みされたので一気に10件の成契となってその年の重要月も
大きな数字でスタ-ト出来たのであります。あとに続く人たちに良い刺激を与えたのだそうです。

 さて、忘れ得ぬことに保険金のお支払がございます。どの死亡にもドラマがつきものでしたが、三点お話し
します。
一つは静岡県宇佐美の方で 26歳の若い旅立ちですから親は半狂乱も無理はありません。虫の知らせと云うのでしょうか、亡くなる十日程前に私のビルに 嫁さんと離婚したのでおやじに名儀変更して下さい と訪ねて来ていたのでした。いきさつを伝えたらお母様は それ!本当なの 本当なの と私に抱きついて来て問いただすのです。災害割増特約も付加されているので六千万円のお支払いになります。 と伝えると髪を振り乱しわなわな震えながら、恒夫が老後資金を残してくれた と泣きながら私を拝むのでありました。その後、別れた妻は保険金の請求に来られたが勿論却下され悪態をついて帰った姿にお金は魔物だとつくづく感じたことでした。

 二つはかわいい盛りの五歳の男の子、ネフロ-ゼの病気で余りにも短い生命の終えんでした。若い両親の悲嘆は今も私の心をゆさぶります。五歳時のお祝い金が支払われたばかりなのに小さな棺に供えてありました。
お別れのとき、そのお金を手に持たせるようにして、マアちゃん自転車を買うお金だよ お空をいっぱい走れよ と若いお父さん お母さんは只泣くだけで、動物がうなるような泣き声でした。このとき私は初めて聖業にたずさわっていると悟ったのでございます。
 
三つ目は三十七歳の末期がんの自動車工場の方でした。  横須賀の病院へ見舞ったとき、抜け落ちた髪の毛を気にするようにすばやくネットを被り、いきなり あんたの保険に入ったからがんになったんだ! と激しい口調でお見舞品もろともテ-ブルにあった物が私めがけて飛んで来たのです。   果物ナイフが私の右足にささり、病院内の出来ごとでしたので応急手処置をして頂き事なきを得たのでありました。右足に残る傷跡を見るたび死にゆく者の
絶叫だったと鎮魂の鐘が重なるのでございます。   銀行員のお兄様が遠く対馬にいるお母様に代わって保険金受取りの手続きを済ませ、あなたには感謝の言葉しかありません と深く頭を下げられました。

 こうして幾多の困難を乗り越え会社が私に要請した三本の柱の一角に迫り、生命保険会社の最高峰MDRTミリオンダラ-ラウンドテ-ブル世界円卓会議へ出席の為、二週間の研修旅行へダラスへ派遣されたのでございます。続けてIQA国際継続率賞にも選んでいただき金字塔を打ち立てることが出来まして、やっと会社へ貢献出来て肩の荷が軽くなったことを感じたものでした。
 
どんなに競争の激しい現場でも協力してくれる人に味方をしてくれるものですから大きな契約が生まれていったのであります。
 日常の協力的な私の態度が認められ、やがて木戸工場長はじめ総務部長、普段お目にかかれない役員の方々が垣根を超えてインタ-コンチネンタルホテルで行なわれたスミセイのイベント古今亭志ん朝さんの落語会に大勢お見えになられ、スミセイの幹部も礼々しくお迎えしたとき私は感激で目頭があつくなりました。
 かつて不安が洋服を着てさまよった辛く悲しいあの日々。聳え立つ大企業の高く厚い壁に向かっていかにして り崩していけるか悩み、模索した過ぎし日々。今、それが勝利へと変わろうとしている。間もなく両首脳同志の会談へと進み大きな企業保険の締結に到達したのであります。

 私は決してイエスマンで働いた訳ではなく、内面ではいつも反発をくりかえしていました。 休養あっても休日なし。
八面六臂の活動をしながら年休も切り捨てて駆けぬけた四十数年を回想すると、根底にあったのは子ども達を守る為、もし私が死んだら親のいない子になってしまう。   絶対に死ぬ訳にはいかないと念じながら常に真剣勝負で走り回っていました。次第に寄る年波には勝てず75歳を過ぎた頃からもう静かに暮らしたいと思うようになって会社へ卒業引退を申し出ると、一年あと一年と後進の為にどうぞ居て下さいと止められるのがおちでした。
 私の場合、働いたこともないので職業の区別など比べようもなくて厳しい営業第一線が修業の場になり鍛えられ、男性的視野を持って強く生きることが出来たのだろうと考えています。
 私の両親は良い家庭婦人になるよう教育してくれたのに、料理の道も手芸への情熱も果たされず、皮肉なことで ございました。
 私とまだ幼ない子ども達を置いて死んで行った夫に対して長い間憎しみを抱いて暮らしていましたが、あれから時が流れ去り徐々に恨みも浄化して、今は安らかに眠って下さいと手を合わせるようになりました。
 私が心のよりどころとなっているプロバスにお誘い、導いて下さった岩城会長に心より尊敬と感謝を申し上げます。
そしてプロバスの皆様、私を迎え入れて下さり、歌も歌わない、お酒も飲まない変な人と思ったでしょうね。
本日のつたないお話しを聞いて下さり厚くお礼申し上げ結びと致します。ありがとうございました。

         二月十日 小野寺 あい子